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東京消防庁・遠藤消防司令にインタビュー

掲載日:2004年3月14日


水防訓練で指揮を執る遠藤消防司令

―― ご経歴についてお聞かせ下さい

 昭和46年3月に東京消防庁に入庁、消防士を拝命。同年8月に渋谷消防署に配置になり、ポンプ隊員として約3年活動し、昭和49年に三鷹消防署に異動、ポンプ小隊長や化学小隊長を務めました。
 昭和53年、消防司令補に昇任して西新井消防署に異動、約1年半出張所の中隊長を務めたのち、警防課防災係員を約6年、総務課管理係員を約2年、毎日勤務員として務めました。昭和62年、本庁の報道係に異動になり約7年同係員として務めました。
 平成5年、消防司令に昇任して尾久消防署に異動、同消防署では教養担当係長、防災指導担当係長として務めたのち、平成8年から2年間救急係長兼大隊長として務めました。平成10年、本田消防署に異動になり、2年間救急係長兼大隊長として務めたのち、出張所長を務め、平成15年から防災指導担当係長を務め、平成16年3月31日で東京消防庁を定年退職します。

―― 消防学校を卒業して、渋谷消防署でポンプ隊員になっての初出場は何でしたか?

 渋谷消防署でポンプ隊員になって初めての災害出場は、ビルの地下での延焼火災でした。地下で放水していて気がついたら胸まで水につかっていました。そして、濃煙の中先輩の背中に放水していて叱られました。

―― 初めて延焼火災に出場して、消火活動にあたったときはどうでしたか?

 初めての延焼火災は、消防に入っての初出場でした。消防に入るまで何度も火災を経験しており冷静に出来るかと思っていましたが、自分の行動が後になってどのようことをしたか覚えていません。また見栄を張って呼吸器を着装せずに活動している最中、煙を吸って一時意識を喪失し、呼吸器の必要性を痛感しました。

―― 空気呼吸器を背負って火災の中に入っていくときはどんな気持ちですか?

 呼吸器を着けての現場活動は視野が狭まり、また煙がある場合は視界がゼロとなり不安になります。活動はほとんど手探りです。火災現場で逃げ遅れた人を発見、救出する時に足を引っ張ったと思ったらぬるぬるして変だなと思ったが、その後良く見たら足の皮を全部むいていて思わず手袋を捨てたことがあります。

―― 平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災地に実際に行かれたそうですが、どんな状況でしたか?

 最初に行ったのが震災後約1週間経ったときでした。その後何度も行きました。最初に行ったときの状況は家がみんな傾いており、自分の目そして体が変になったと感じました。また被災者の方々と話していて気づいたのは心の痛みのケアというのは、その人の近所の人、家庭の事情をよく知っている人が心の痛みを聞いてやり励ますことが一番心のケアになることを知りました。また隣近所付き合いがなくともこのような時にはみんなの心が一つになるんだということも知りました。
 約6400名の方がこの地震で亡くなられましたが、この亡くなられた方の一人ひとりの重みをもっと考えるべきではないかと自分自身に言い聞かせました。

―― 尾久消防署で勤務されていたときに、阪神・淡路大震災を教訓に荒川区民レスキュー隊を発足させましたが、そのときの心情をお聞かせください。

 隣近所の人に助けられたという人がたくさんいたという事実と長田町の消防士の一人に聞いたところ、人を助けるために隊員が住民に引っ張られていき消防にしかできないポンプを使っての消火ができなかったという話を聞きました。その事実を町会の人に話したところ、各町会・自治会内にレスキュー隊を作ろうということになり、それと区・警察が後押ししてくれて一気に盛り上がり発足ということになりました。現在荒川区内117の町会・自治会のうち91隊のレスキュー隊が発足して活動しています。

―― 尾久消防署では初めて大隊長という立場で災害に出場されましたが、大隊長として初めて延焼火災に出場したときはどうでしたか?

 大隊長として出場した初の延焼火災は、昼間に発生した第2出場のかかった大きな火災でした。大隊長の任務は隊員の安全を考慮しながら被害を最小限に抑えることです。いち早く災害の実態を把握し、より効果的に隊員を投入し、被害の軽減を図ります。しかし頭では知っていても実際は火災の正面でうろうろして気がついたら鎮火していました。

―― 大隊長の立場で出場した災害現場の中で一番記憶に残る災害は何ですか?

 本田消防署で大隊長をしているとき、12月24日のクリスマスイブの日にダンプ2台と乗用車の追突交通事故が発生し、ダンプの運転手がハンドルに挟まれるという救助活動がありました。挟まれている傷病者を励まし、助け出すまで医師とともに傷病者と話をしていましたが、助け出した直後に傷病者は息を引き取るということがありました。あとは思い出したくない現場の惨事がたくさんありました。

―― 大隊長は現場活動では指揮本部長として消防部隊を指揮して動かすわけですが、隊員とはまた違うやりがいがあると思いますがどうですか?

 大隊長の任務は前にも述べたように、部隊を効率良く動かし発生した災害の被害を最小限に抑えることにあります。そのためには日頃から隊員及び小隊の活動能力を知っておく必要があります。そして災害の実態をいち早く知る必要があります。そして活動方針などを決定し、それぞれに任務を与え活動するわけですが、その方針が間違いなかったという結果が出たときに大隊長としてのやりがいを感じます。
 ある水難救助事案ですが、冬の夜中2時頃に荒川に人が飛び込んだという指令があり、目撃者などの情報を基に活動方針を決定しますが、このとき情報の中に「飛び込んで頭を出し泳いでいるように見えたが下流のほうに流れ見えなくなった」との情報がありました。これまでの経験からこれは絶対岸にいるとの判断から岸の検索を徹底したところ草むらにうずくまって隠れていた要救助者を発見することができました。

―― 消防生活33年間の中で、現場活動で身の危険を感じた災害現場があったそうですがどんな災害でどんな状況でしたか?

 身の危険を感じた災害現場は3度ありました。昭和46年、渋谷区神宮前のマンション9階で発生した火災で、ホースカーを引いてホースを延長、そのホースを取り出しさらにホースを延長し始めた時、ヘルメットと背中をかすめて上から何かが落ちてきました。何か落ちてきたなと思いつつもそのまま ホースを連結送水管に結合しに行き、後に戻って見てみると人でした。もうちょっと遅ければ下敷きになっていました。当時の班長から遠藤は災害では絶対に死なないと言われその通りになった。
 2度目は、昭和51年に三鷹市の明星学園中学校で発生した火災で、2階の教室が延焼中で機関員から廊下が長いのでホースを延長してから放水始めの合図をくれとのことで、2人で呼吸器を着けてホースを延長して火点に近づき一人に伝令の依頼(機関員に放水始めの合図をするように)したが、いつまでたっても水がきませんでした。そのうち、天井にも燃え体が熱くなったためホースを投げ出し逃げましたが、廊下が長くて階段を転がり落ち逃げてきました。
 3度目は、昭和54年に足立区で発生したアセチレン爆発火災で、西新井消防署大師前出張所の中隊長をやっていたときに、工場火災で周りが燃えている炎の中にアセチレンボンベが倒れ真白い炎を出し、これは爆発するなと判断してみんなに「逃げろ!」と怒鳴っている時に爆発、爆風で飛ばされ隊員の頭を超えていったために、今でも当時の仲間と会うたびにみんなより先に逃げたと言われている。

―― 33年の消防生活はどんなものでしたか?

 結果的に私は公務員として生まれて来る人間だったのかなと思います。他に何も能力がなく、ただ人の為、都民の為になることだけを考えて生活して来たようなもので、もっと能力があれば都民のみなさんがより安全で快適な生活が送れることが出来たのにと後悔しています。
 やりたいことはたくさんありましたが、時代に合ってなかったり、自分だけ良かれと判断して行おうとしたこともたくさんありました。ただもっとその都度深く考え行動すべきであった。自分の行動・考え方は常に走りながら考えるということであったが、良い結果を得るためにはまず考えそして行動し、修正していくことを消防生活で教わった。しかし気づいた時はもう退職間近で、結果的には何もやらずに終わったという感じである。


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